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最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません
1982年3月24日、対巨人のオープン戦でプロ19年間の現役生活を締めた大杉勝男(東映-日拓-日本ハム-ヤクルト)が引退セレモニーで発した言葉である。わたしにはこの大杉氏の言葉こそ、私含め多くの日本人がプロ野球を始めとした野球文化に熱狂するその根幹を捉えているとおもう。
大杉氏は1965年にパリーグ所属の東映フライヤーズ(現 日本ハムファイターズ)に入団後、持ち前の打撃センスで日本ハム最終年である1974年までの十年間で287本。1975年ヤクルト移籍後、上記の引退試合まで6年間で199本の本塁打をセリーグの投手たち相手に打った。歴代通算本塁打は296本で歴代9位。通算打点も1507打点で歴代9位とまさに球史にその名を刻んだ名選手だ。
そんな大杉氏が語ったセ・リーグ、パ・リーグ両リーグでの200本塁打は1982年時点では誰も達成していない大偉業であり、ファンも大杉氏自身も願い求めていた1つの到達点であった。しかし、1981年持病の不整脈が悪化し大杉の身体を痛めつることが増え、それに伴うように成績も悪化し出場自体も困難を極めるなかで引退の決意を固めた。
そのある種の無念さが引退セレモニーでの名言を生んだと私は思う。そして、この大杉氏が発した発言に含まれる仄暗い無念さと夢見てほしいという希望のコントラストの強さこそが野球の根強い人気の下支えになっている。
そもそも野球とはミスするのが当たり前、失敗が前提のスポーツである。
野球の華はなんといっても投手の投げた球を打者が捉え、ヒットやホームランという結果に繋げることであり、そうしなければ勝利はない。だが、どんなに実力と実績のある打者でも3割を打つのが難しいと言われている。言い換えれば10回中3回は成功するが7回は失敗する。一流の選手でも打率3割なので、大半の並みの選手ならもっと低い。失敗の方が多いことが約束されたスポーツなのだ。一方で投手も成績の一番前に来るのは、その投手が9イニング(1試合9イニング27アウト)を投げて何失点するかの平均である防御率である。わたしは野球人気の一つにこの失敗が目につきやすいこと、見た目に分かりやすいことがあるのではないかと考えている。
わたしを含め世間一般の人々はその日常生活において失敗を重ねる。努力は裏切り、結果がすぐさま人生に反映されることはない。約束された栄光などどこにもない。そして、その日常を襲う失敗から来る不安を和らげる術を常に求めている。そんな中で野球場に足を運ぶと、投手はマウンドで、打者は打席で、走者は塁上で、野手はそれぞれのポジションで照明の光を浴びて各々が孤独な背中を抱えながら成功と失敗のラインを行ったり来たりを繰り返している。ストライクなら成功、ボールなら失敗。ヒットなら成功、空振りなら失敗。ホームランなら成功、ファールなら失敗。成功にしろ失敗にしろ投手が投球動作に入ってボールを投げるという仕切り直しが常に先へ先へと結果が押し寄せてくる。そんな姿を目の当たりにして、わたしたちは選手たちに我々の日常生活との共通項を無意識的に見出しているんだとわたしは考えている。失敗の方が多い現実、それでも日常(試合)は進行し続ける。どこに活路を見出すのか。そんな野球の日常との連続性は魅力の一つといえるが、ここまで読んでいただいた読者の方の頭には「そんなことほかのスポーツやコンテンツにも当てはまるじゃないのか」という言葉が浮かんでいると思う。そこでわたしは野球の魅力として重要なポイントをもう1つ挙げたい。
野球の魅力とはその「間」の多さだ。
プロ野球の試合を例に出すと、1試合の平均時間は3時間11分。そんななかお互いが1試合27個のアウトを取るのにかかる球数は300球弱(各130球から150球前後)とされている。各チームが150球もの球を投げる投球間隔が一球当たり15秒から25秒かかる。これが一番我々の目につきやすい「間」だ。その他にもファールボールを打った直後、投手を含む守備の変更時、攻守の交代、プロ野球では攻守の交代の合間にイベントが催されたりもする。この間の多さが野球の発展してきた要因ともいえる。特に昭和期、ラジオがメディアで隆盛を極めていたころから令和の今日に至るまでラジオでのプロ野球中継は一大コンテンツだが、そうなったのは先ほど説明した投球一球一球の時間で実況が投球や試合経過を語りやすいということがある。「試合は5回の表ワンアウトランナー一塁。ピッチャー浅野、少しばかり表情に影が出てきたか?ランナーを肩越しにけん制して第二球投げました!」というような仔細な試合描写を15秒~25秒ごとに繰り返し更新していって伝えられることは視聴者の想像力を掻き立て盛り上がるのに大きく貢献した。そして、その想像力は野球放送の主流がテレビに移っても、もちろん現地観戦においても非常に重要なファクターだ。
想像力はイコール観客たちの夢を見る力となる。そのひとつひとつのプレーの合間15秒の中で、我々は頭の中で夢を見ることが出来るのだ。好きな選手がヒットを打つイメージ、ホームランを打つイメージ。投手ならストライクを取る、空振りをとる、フライに打ち取る、三振に取る。それらが積み重なっていくき、チームが試合に勝つ。一人ずつの夢が一人ずつの声となり、それが隣同士の席の人や周囲の声と重なり声援となり、熱気となり、その熱気が球場全体を包み込む。その熱気を浴びて、原動力として選手たちも私たちもまたより大きな夢に向かって躍動し続けるのだ。
野球の試合時間の長さは今の時代風にいえば「コスパ」が悪いと野球界の内外から言われている。もちろん、時代の移り変わりは野球界だけではどうにもならないものでもあるので、野球界も生存戦略としての改革を推し進めるべきだと私も思う。けれど、野球の魅力については野球に関わる、野球を愛するひとりひとりが考えていかなければ改革はできても改善ができているどうかの本質的な部分がわからなくなることが出てくるかもしれない。
そこでわたしはいつも大杉勝男さんの言葉を思い出す。
最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません
この言葉こそが私にとって野球ということを考えるスタートラインとしているからだ。大杉氏は私たちにどうか夢を見続けてほしい。夢を持つのことの大切さ、その夢が持つ熱量の大切さを教えてくれている気がする。そして、これまで述べたように野球は想像力を使い、夢見ることがしやすいスポーツだ。そこに活路はあると思う。
野球は春から秋にかけて行われるスポーツだ。オフシーズンである冬の間は、ただただ私たちの頭の中で夢を見よう。
澄んだ空の中を白球が高々と舞い上がり、観衆の波の中に消えていく光景を。その後に起こる地響きのような大歓声を。選手同士、ファン同士が抱き合い喜び合う姿を。想像力こそ希望だ。
